人生が始まるゴング!
「諦める」という言葉には、どこか負けの匂いがある。
頑張れなかった人。
途中で降りた人。
理想を捨てた人。
現実に屈した人。
そんなふうに見られやすい。
でも最近、僕は少し違うことを考えています。
諦めることは、本当に負けなのか。
仕方ないと受け入れることは、本当に敗北なのか。
むしろ、人間が本当に強くなるのは、「どうにもならないものがある」と分かった後なのではないか。
思い通りになる世界を信じているうちは、人はまだ若い。悪い意味ではなく、世界に対して、どこか全能感を持っている。
努力すれば報われる。
正直に生きれば損をしない。
良いことをすれば、ちゃんと良い結果が返ってくる。
社会は少しずつ良くなっていく。
科学も経済も技術も、人間を幸福にしてくれる。
そう信じられる時代が、たぶん少し前まではあった。
でも、いまはかなり怪しい。
社会は便利になった。情報は増えた。AIも出てきた。選択肢も増えた。にもかかわらず、人は必ずしも幸福になっていない。むしろ、何を信じて、何のために頑張ればいいのかが見えにくくなっている。
若者に「起業しよう」「挑戦しよう」「好きなことで生きよう」と言うことは簡単です。
でも、その前に大人自身が、「何のために?」に答えられているのか。
ここがかなり怪しい。
金のためだけではない。
承認のためだけでもない。
社会課題のため、と言えばそれっぽいけれど、その言葉すらマーケティングの道具になる。
何に情熱を燃やせばいいのか。
どこへ向かえばいいのか。
そもそも人間は、何を幸福と呼ぶべきなのか。
その土台が揺らいでいる。
だから僕は、いまの時代には、ある種の絶望をきちんと認める必要があると思っています。
「頑張ればどうにかなる」の終わり
現代は、能動性の時代に見えます。
自分で選べ。
自分で決めろ。
自分を高めろ。
キャリアを設計しろ。
市場価値を上げろ。
行動した者だけが勝つ。
そういう言葉は、いたるところにあります。
でも実際には、多くの人が強烈な受動性の中に置かれている。
生まれる国も、親も、身体も、時代も選べない。
パンデミックも、戦争も、経済不安も、AIの登場も、自分では止められない。
会社の制度も、社会の空気も、SNSの評価も、教育システムも、ほとんど個人の意志では変えられない。
それなのに、「全部あなたの選択です」と言われる。
これは、かなりきつい。
もちろん、自分で選ぶことは大切です。僕も、人生を他人任せにしていいとは思わない。
でも、人間はそんなに自由ではない。
脳科学的に見ても、人は世界をそのまま見ているわけではありません。過去の経験、身体の状態、人間関係、社会的な圧力、失敗体験、成功体験。そうしたものから作られた予測モデルを通して、今を見ている。
「やればできる」と思える人は、そう思えるだけの条件を生きてきた人でもある。
逆に、「どうせ無理だ」と感じてしまう人は、根性がないだけではない。何度も期待して、傷ついて、世界に対する予測が硬くなっていることがある。
だから、「諦めるな」とだけ言うのは、乱暴です。
人には、いったん諦めることが必要な時があります。
自分の力で全部を変えられるという幻想を諦める。
正しいことをしていれば必ず報われるという期待を諦める。
過去がなかったことになるという希望を諦める。
相手がいつか分かってくれるはずだという執着を諦める。
これは、負けではない。
むしろ、現実を見るということです。
ただし、ここで大事なのは、諦めることと、人生から降りることは違うということです。
「仕方ない」と受け入れることは、「もう何もしない」という意味ではない。
思い通りにはならない。
でも、だからこそ、自分がどう応答するかは残っている。
この感覚が、たぶん大事なのだと思います。
仕方なさの中で、人はどう意地を持つのか
人間は、どうにもならないものに巻き込まれます。
病気になる。
老いる。
失敗する。
愛する人を失う。
裏切られる。
社会の変化に押し流される。
自分の努力では動かせない条件にぶつかる。
それを全部「自己責任」と呼ぶのは、冷たすぎる。
一方で、それを全部「社会が悪い」と言って、自分の人生を手放してしまうのも、どこか違う。
あなたが悪いんじゃない。
でも、免責ではない。
この感覚を、僕は大事にしたいです。
仏教には、世界を固定したものとして見ない考え方があります。自分というものも、感情というものも、関係性や条件の中で、そのつど立ち上がってくる。
これは、現代の脳科学ともかなり響き合うところがあります。
感情は、心の奥から自然に湧き上がる固定物ではない。脳が、身体の状態や過去の経験や今の状況をもとに、「これは悲しみだ」「これは怒りだ」「これは不安だ」と構成している。
だとすれば、絶望もまた、ただの終着点ではない。
絶望は、「世界はこうであってほしい」という予測が壊れた時に生まれる。
努力すれば報われるはずだった。
正直者が損をしない社会であってほしかった。
大人は未来を語れるはずだった。
社会は発展すれば、人間を幸福にするはずだった。
そういう予測が崩れた時、人は絶望する。
でも、その絶望は、別の予測モデルへ移る入口でもある。
「世界は思い通りになる場所ではない」
「でも、自分が何を大切にするかは残っている」
「全部は救えない」
「でも、目の前の一人との関係は変えられるかもしれない」
「社会全体を変える力はない」
「でも、自分の火を誰かに手渡すことはできるかもしれない」
そういう形で、絶望は次の希望の地平線になる。
希望とは、明るい未来を楽観することではないのだと思います。
本当の希望は、もっと地味です。
どうにもならないものを見た後で、それでも自分は何をするのか。
世界に勝てないと分かった後で、それでも何を守るのか。
自分が万能ではないと知った後で、それでも誰に手を伸ばすのか。
そこに生まれるのは、キラキラした自己実現ではありません。
もっと泥臭い、意地です。
絶望した後に、それでも火を手渡す
大きなシステムを一気に変えることは、たぶん簡単ではありません。
資本主義も、教育制度も、SNSも、AIの流れも、個人が気合いで止められるものではない。
だからといって、何もできないわけではない。
僕たちにできるのは、まず目の前の関係性を腐らせないことだと思います。
誰かの苦しさを、すぐに自己責任にしない。
でも、被害者の場所に居座らせもしない。
相手を固定した本質で決めつけず、「なぜ今この反応が起きているのか」を考える。
自分の正しさを押しつける前に、相手が何を予測し、何に怯え、何を守ろうとしているのかを見る。
こういうことは、派手ではありません。
でも、人間関係の断絶を少し減らすことはできる。
そして、人は理論だけでは変わらない。
感化される必要があります。
この人みたいに生きたい。
この人の前では、少しだけ自分もちゃんとしたくなる。
この人に恥ずかしくないように、もう少し踏ん張りたい。
そう思わせてくれる人がいること。
それは、現代においてかなり大きな救いだと思います。
人間はすぐ冷めます。
すぐ省エネになります。
すぐ「まあ、そんなもんだよね」と言って、自分の火を小さくする。
だからこそ、火に油を注ぎ合う場所がいる。
立派なことばかり言う場所ではなく、失敗も、嫉妬も、弱さも、しょうもなさも笑いながら、それでも「で、どう生きる?」と問い合える場所。
諦めることは、負けではない。
仕方ないと受け入れることも、負けではない。
むしろ、人はそこからようやく始まるのだと思います。
思い通りにならない世界を見た。
正直者が報われるとは限らない社会も見た。
努力だけでは越えられない条件も知った。
自分の弱さも、他人のどうしようもなさも知った。
その上で、まだ何かを守ろうとする。
そこに、人間の強さがある。
絶望は、希望の反対ではない。
絶望は、安い希望が壊れた後に、本当に自分が信じるものを選び直す場所です。
だから、諦めることを恐れなくていい。
ただし、人生から降りてはいけない。
仕方ないと受け入れた後で、もう一度、自分の足で立つ。
その時に残っている小さな火こそが、たぶん次の希望です。
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